活動ブログ

あさか由香物語

2016.5.25

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あさか由香物語

平和の願い国政へ

由香の由来「自由な意見を、香り
が行き渡るように伝えてほしい」

あさかさんは1980年3月、横浜市鶴見区に生まれました。由香の名前には「自由な意見を、香りが行き渡るように伝えてほしい」という両親の願いがこめられています。
本屋だった東京の親戚が本をよく送ってくれたこともあって、読書好きな子どもでした。
太平洋戦争末期、上野動物園で餓死させられた3頭のゾウの姿を描いた童話『かわいそうなぞう』を涙を流しながら読みました。
頑張り屋
京浜工業地帯の中核として発展してきた鶴見区。高度経済成長期には工場のばい煙などによる公害問題が発生しました。現在は自動車排ガスによる大気汚染が深刻です。
3歳からぜんそくの発作に苦しんできた、あさかさん。真夜中に病院へ駆け込むこともたびたびでした。
父の金谷和夫さん(64)は当時、東燃化学川崎工場の労働者として、思想信条の差別をなくそうとたたかっていました(1986年に勝利解決)。
「仕事やたたかい、子育てで忙しい両親にとって、私のぜんそくの看病は大変だったと思います。両親への感謝の気持ちでいっぱいです」とあさかさん。
小学校入学後も、ぜんそくの症状は改善せず、小学1年と5年のときは入院したほどでした。
体調が悪く参加できなかった林間学校のコースを、後日、家族と回り、一人の記念写真を撮ったことも。
体育大会でリレーの選手に選ばれ、毎朝特訓しましたが、ドクターストップで出場できず、悔しい思いをしました。
けれども、ぜんそくで苦しむ姿は、友達に見せまいと必死でした。
そんななか、達成感を味わってほしいと、両親が丹沢の大山登山を計画しました。
後ろから持ち上げられながら登頂を果たし喜んでいる由香さんの姿を和夫さんは鮮明に覚えています。「小さいときから由香は頑張り屋でした」
あさかさんは振り返ります。「負けず嫌いの性格は、小学生のころから養われました」
行動力抜群
ぜんそくがあるにもかかわらずスポーツウーマンで行動力抜群の、あさかさん。中学、高校はバレーボールに熱中しました。
中学1年から先輩たちに混じって試合に出ました。少女アニメ『アタック№1』の影響を受け、回転レシーブを猛特訓。「とにかく楽しかった。根性も鍛えられました」と笑います。
高校時代は、ニュージーランドにホームステイしたり、ニュージーランドやオーストラリアを一人旅したりしました。
「鶴見の空襲を伝え平和を願う実行委員会」の活動で朗読劇に出演し、「戦争は絶対にしたくない」と思うようになりました。
忘れられないのが、戦後・被爆50年の原水爆禁止世界大会や、米兵による少女暴行事件(95年)を受けて開催された沖縄での全国高校生平和集会に参加したことです。受け身ではなく能動的、前向きに行動する人たちの生き方に心を揺さぶられました。
沖縄戦で使われたガマ(自然洞窟)を見たり、被爆者、戦争体験者の話を聞いたりして、戦争の悲惨さを深く考えました。
カンボジアに学校を造るボランティア活動に取り組んだのは高校2年の春休みでした。ボランティアを行うにあたって、1970年代後半のポル・ポト政権下で起きた大量虐殺などについても学びました。
「学校をもっと建ててほしい」。カンボジア政府の役人が式典で述べた言葉です。
あさかさんは、ボランティア任せともとれる発言に違和感を覚えました。同時に、「他国の文化や歴史をもっと学んで理解できるようになりたい」とも考えました。
当時、一緒に活動した河野久美子さん(35)は、「由香さんは高校生のときから明るくて行動力がある人でした。平和の願いを国会へ届けてほしい」とエールを送ります。

人間らしい働き方

まじめに働いたら
普通に暮らせる社会を

命の尊さ実感
あさか由香さんは、「世界から貧困・紛争をなくすために学びたい」と筑波大学に入学しました。在学中、「世界の現状を自分の目で確かめよう」と、13カ国を旅しました。
2000年には、日本、中国、韓国の女子学生が女性のリーダーシップをどう発揮していくかについて討論する韓国での集いに、大学を代表して参加。ニューヨーク州立オスヴェゴ大学に交換留学し、生きた英語を学んだり、交友関係を広げたりしました。
ところが、01年3月23日、あさかさんを悲劇が襲います。留学中の、あさかさんのもとに家族全員が合流し、ドライブをしていたときでした。交通事故で、母、兄、妹を一度に失ったのです。この日は、あさかさんの誕生日でした。
帰国した、あさかさんは、家族を救えなかった怒りと悲しみでいっぱいに。命の尊さ、家族の大切さを痛感させられました。
そんなときでした。9・11同時多発テロ事件が起きました。そして、米英両国によるイラク戦争が始まりました。
「人の命を何だと思っているんだ。戦争で殺されるのは普通の家庭。絶対に許せない」。心の中で叫び、イラク戦争反対の運動に飛び込みました。

戦争止めたい
家族3人を失った事故から1年が経ったころ、3人を追悼する文集「かけぬけて 風よ」が実行委員会から発行されました。
「みんなが3人から学んだことや、ともに経験したことを今後の人生に生かそうとしている。私も頑張らないといけない」。あさかさんは文集の制作過程で、前向きなエネルギーをまわりの人からもらいました。
新日本婦人の会などで活動した母の金谷博子さんの生き方にも触れました。
あさかさんは、文集にこう書きました。
「私を、私の生き方を見ていてください。お母さん、何処にいても、自慢できるような娘でいるように頑張ります。自分の幸せのためにもね。そして、いつかお母さんのように皆から感謝されるような人になりたい」
その後、あさかさんは、戦前から戦争反対を貫いた日本共産党に入党しました。「戦争を起こすアメリカをストップできる日本に変えたい」と。

仲間に支えられて
大学卒業後は、IT企業のシステムエンジニアとして働き始めました。職場は、長時間過密労働で、休みも取れない忙しさでした。あさかさんは、夢を持った同僚が倒れる姿を見て怒りを燃やします。
日本民主青年同盟の活動にも積極的に関わるようになり、「お仕事実態調査」や青年大集会の取り組みを広げました。
失った3人の分の人生を生きようと自分を削るように必死に活動しました。「家族のような仲間に支えられ、気負いなく生きられるようになりました」と振り返ります。
「由香さんは相手の気持ちを引き出すことができる人。最初はとっつきにくいと思っていましたが、しだいに仕事や恋愛などの相談を仲間からされるようになりました」と話すのは、ともに活動した恩田和枝さん(36)です。「国政に挑戦することを決めた由香さんの覚悟を、仲間のみんなとシェア(共有)したい」
あさかさんはいいます。
「まじめに働いたら普通に暮らしていける社会にしていきたい。サービス残業や長時間過密労働、ブラック企業を規制し、人間らしい働き方を保障するルールをつくるために力を尽くします」

 

青年が輝く社会を

社会進歩の道切り開こう

人に感謝される仕事
システムエンジニアだった、あさか由香さんは2003年、都内の国際運輸会社に転職しました。
貧困を解決するため、アフリカにボランティア組織を立ち上げようとしたときに知り合った同社の社長に誘われたからでした。
約6年、会社を代表してさまざまな国を見て回った、あさかさん。日本で使わなくなった楽器をケニアのエイズの孤児院に送るプロジェクトに仕事で関わり、ケニア大使館から感謝状をもらったことも。人に感謝され、女性でも正当に評価される仕事にやりがいを感じました。
そんな、あさかさんに人生の転機が訪れます。
「共産党の専従をやってもらいたい」。当時、日本共産党横浜北東地区委員会委員長の忽那(くつな)重治さんからの要請でした。
最初は断りました。しかし、青年を苦しめる政治の現実が、あさかさんを変えました。
「青年が生き生きとする社会をつくるには党をもっと強く大きくしないといけない。社会進歩の道を切り開こう」
悩んだ末の決断。会社を退職して、共産党の仕事につく道を選びました。住民の困難を解決するために奮闘する共産党員の生き方も決意を後押ししました。
忽那さんは「あさかさんは弱い人の意見も聞き、どう貢献できるか考える人です。語学力や交渉力も高く、国会ですぐに活躍できる素晴らしい政治家です」と評します。

米大学で核兵器廃絶訴え
2010年に党県委員会の青年学生部長となった、あさかさんは青年運動の先頭に立ちました。同年の核不拡散条約(NPT)再検討会議のニューヨーク行動に学生たちと参加し、核兵器廃絶を訴えました。
自身が交換留学していたニューヨーク州立オスウェゴ大学で、100人以上の学生に原爆の被害を英語で伝えました。原爆の被害をテーマにした講義が同大学で行われたのは初めてのことでした。
当日、真剣な表情で話を聞いた学生の感想は-。
「核兵器がたくさんの恐ろしい結果を生み出すことを知った」「アメリカに来て私たちと話す時間を設けてくれてありがとう」
原子力について教えている物理学教授と懇談し、学生に核兵器の問題をどう考えてもらうかなど意見を交わしました。
当時、大学生で、あさかさんと行動をともにした味村耕太郎さん(26歳・日本共産党藤沢市議)は「あさかさんは、ホストファミリーなど周りの人から愛されていました」と振り返ります。
講義や懇談のきっかけは、あさかさんから大学の先生に送った一通のメールでした。
取り組み後、メールを送った先生に「なぜこんな活動をしているのか?」と聞かれ恐る恐る共産党の活動をしていることを打ち明けた、あさかさん。「100%応援する」と先生に抱きしめられ、自信をつけました。
あさかさんは確信を深めます。「相手を信頼して動けば必ず応えてくれる人がいる。その行動がよりよい社会をつくっていくことにつながる」

原発ゼロの日本へ

社会進歩の道切り開こう

子どもたちを守りたい
「自分の成長、2人の成長、これからつくる家族の成長と社会の発展を重ね合わせた生き方をしたい」。その思いから、あさか由香さんは2010年7月、介護の現場で働き、労働運動に取り組んだ浅賀一伸さんと結婚しました。
その後、横浜市から二宮町に移住。保育や教育関連の資料を集めるなど、日本共産党の町議となった一伸さんの活動を支えました。

エネルギーに満ちあふれ
東日本大震災、東京電力福島第1原発事故が起きたのは11年3月でした。
あさかさんは、避難生活を余儀なくされた被災者へのボランティア活動にかけつけ、「原発とは共存できない」と痛感しました。
原発事故から約1年後、長男が生まれ、母乳への放射能の影響などを心配した、あさかさん。「子どもたちを守りたい」とママ友と学習会を開いたり、測定活動に取り組んだりしました。
「あさかさんはエネルギーに満ちあふれた女性」と話すのは、一緒に測定活動をした2児の母親(35)です。「震災以降、放射能の数値が気になり、悶々(もんもん)としていたとき、あさかさんが数値を測るといってくれ、『ぜひ一緒に』と取り組みました。放射能の影響が分かり、ありがたかった」と振り返ります。
あさかさんは12年の総選挙で、神奈川15区から立候補してたたかいました。「一人の大人として原発事故をふせげなかった。二度と事故を起こさせない」と考えたからでした。
同区は、県内唯一の〝自共対決〟となり、あさかさんは得票率20%を獲得し善戦。「原発マネーとも利権ともいっさい関係のない日本共産党を伸ばして原発ゼロを」などの訴えが共感を広げました。13年には参院比例候補として県内を駆け巡りました。
昨年、一伸さんは渡辺訓任(くにたか)さんに町議をバトンタッチ。あさかさん一家は今年1月、横浜市鶴見区の実家に引っ越しました。
国政への挑戦を要請されたとき、あさかさんは「0歳と3歳の子どもと関わる時間が減ってしまう」と悩みましたが、「子どもたちを大切にする社会をつくりたい」と決意しました。
保育園に子どもを送り迎えする担当になった一伸さん(39)は、「2児のパパとして成長することが妻の活動を支えることになる。苦手意識がある料理も含め、家事をしっかりやっていきたい」と意気込みます。

女性活動家の志受け継いで
あさかさんは20代のとき、過酷な弾圧によって亡くなった戦前の活動家、伊藤千代子さんの生き方を支えに活動しました。
「今は困難に屈せず、信念を貫くすべての活動家を尊敬しています。特に女性であるがゆえの困難さを一歩ずつ乗り越えながら活動している女性活動家に敬意を感じます」という、あさかさん。戦争法など安倍政権が「海外で戦争する国」づくりをすすめるなか、女性活動家たちのたたかいと志を受け継いで行動します。
あさかさんは訴えます。
「戦争法を廃止し、平和を守る国づくりをすすめたい」

新かながわ社より転載