プロフィール
1980年横浜市鶴見区生まれ(旧姓・金谷)。森村学園高等部、筑波大学国際総合学類卒。民間企業にシステムエンジニアとして勤務後、国際輸送業に関わる。世界から貧困と紛争をなくしたいという思いで数々のボランティアに携わり、日本共産党に入党。夫と9歳・6歳・0歳の5人家族。
ぜんそくで苦しんだ子ども時代
1980年3月23日、父、母、兄、妹の5人家族に生まれました。3歳から喘息を発症し、小1で入院。読書の日々に。「みんなみたいに勉強したい」と学校の授業に憧れも。以後、読書と勉強が好きに。
部活、バイト、留学
中学・高校はバレーボール部。レシーブのために校庭でも転げ回る泥臭いプレースタイルでした。高校1年生の時にはアルバイトでお金を貯めて、ニュージーランドでホームステイに挑戦。高校2年の時には、カンボジアに学校を造るボランティアに取り組みました。高校時代に沖縄少女暴行事件やフランス核実験などがニュースとなり、平和や貧困に興味をもつように。
筑波大学時代:貧乏旅行と留学
「世界から貧困と紛争をなくしたい。」10代を通して、この思いが強くなっていきました。その方法を知るために勉強を続けようと決意し、筑波大学に入学しました。大学時代、バックパッカーとして世界11カ国を貧乏旅行。フランス語を学ぶため、フランスのポー大学に語学留学。アメリカのニューヨーク州立大学には交換留学で学びに行きました。国際的な環境で、たくさんの大切な出会いに恵まれました。
しかしその後、家族の三人(母・兄・妹)を突然、交通事故で亡くしました。自分は何のために生きているのか、あらためて模索し、もがくなかで、命を大切にする社会に向けて、社会活動・平和運動に参加するようになりました。
就職、NGO、新たな出会い
世界で、地域で、平和と雇用をまもる活動
「貧困と紛争のない世界をつくりたい」――この思いを胸に、挫折や苦労を乗り越えながら、とどまることなく挑戦は続きました。母校であるニューヨーク州立大学で恩師とともに原爆展を開催、核拡散防止条約(NPT)再検討会議に向けた国際平和会議(2010年)に参加、また、パレスチナ大使を招いた講演で通訳をおこなうなど、世界平和のためにとりくんできました。
安心して働くことのできない青年を放っておけないと、街頭労働相談や「お仕事実態調査」、「青年雇用集会」に関わり、国・県との交渉もおこなってきました。
また、新潟県中越地震や東日本大震災のボランティア活動に仲間と一緒にかけつけました。その後出産したあとも、原発をなくすための活動をおこなってきました。
大学卒業後に日本共産党に入党。一人ひとりの人権を大事に、日本国憲法を実践する立場に励まされながら歩んできました。
参議院神奈川選挙区に挑戦
「パパの帰りが遅いから8時間働けばふつうに暮らせる社会を実現してほしい。小学生の中で一番人気だったからまた頑張れ」いただいたこのメッセージを胸に「8時間働けばふつうに暮らせる社会へ」と題したパンフレットを各地でお渡しし「その社会を一緒につくろう」と呼びかけ、力を合わせてきました。
この活動の中で、ママたちからも大きな反響がありました。長時間労働はワンオペ育児をうみだし、長時間労働ができないからと女性差別を生み出していること、働く人だけでなく、親の長時間労働、保育士や教員の劣悪な労働環境は、子どもたちをも犠牲にしていることを痛感しました。
県内各地で数多くの懇談の場をつくり、女性たち、母親たち、そして子どもたちの声を受け止めてきました。
神奈川県内の米軍基地にまつわる問題では、防衛省と外務省への聞き取りを重ね、米軍基地に直接出向いて繰り返し申し入れを行ってきました。ほかにも、無期転換逃れ問題では厚労省に、多額な納税による担保差し押さえの問題では国税庁に、そしてコロナ禍では日本共産党神奈川県委員会コロナ対策本部長として、毎日のように寄せられる相談、課題に、日本共産党の国会議員や地方議員団と一緒に、改善のために力を尽くしてきました。
原発再稼働反対、安保法案、カジノ法案、入管法改定、TPP関連法案、働き方改革関連法案、フラワーデモ、ヘイトスピーチ解消、五輪より命が大事……
国民の怒りの声が上がる時、あさか由香は必ずその場に一市民として参加し、ともに声を上げ、ともに歩んでいます。